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お米を制する者は社会を制す!?

稲は東南アジアで生まれましたが、人々を介して世界各地へと広がっていきました。高温多湿で水が豊富なアジアの気候や風土にぴったりの作物で、東南アジアやインド・中国が栄えたのは、稲が多くの人々の主食となっていたからです。

日本において、紀元後3世紀に邪馬台国が栄えた理由の1つが、稲作であると考えられています。邪馬台国の時代には、すでにお米は主食となっていました。お米が作られる前の日本の人口は、約20万人でしたが、お米が主食となった奈良時代には600万人、江戸時代後半には3000万人にも人口が増加しています。日本の人口が増加したのは、稲作が日本の気候や風土に適しており、収穫量が多かったことも一因といえるでしょう。

日本では稲作が始まった時代から、人々が共同で米作りの労働に携わってきました。稲作は共同作業で行われることも多かったので、村などの共同体の基礎となったとも考えられています。

時代が進むにつれて米の大量生産が可能になり、米は富の象徴として変化していきます。米を確保するために、領地や水源などの奪い合いも繰り返されてきました。さらに米は重要な食料として、人々を支配する権力者の所有物になっていきました。そして江戸時代になると、幕府や諸大名がお米をお金に換えて暮らしを立てるようになります。それに伴って、お米を換金する商人の力が強くなっていきました。このようにして、お米は日本経済をも支配するようになります。商人がお米の流通に関わるようになったことで、日本は町人の文化へとシフトしていったのです。

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